経験という名の聖域を、静かなる「窓」へと研磨する

── 痛みの個別性を敬い、自らの疼きと「伴に」座るためのセラピストの作法

誰かの心の深淵に触れるとき、私たちは常に、自分自身の過去という深い森を背負って、その場に立っています。

特に、自らも過酷な葛藤や喪失の季節を通り抜けてきた私たちは、クライエントさんの語りの中に、かつての自分の叫びと似た残響を聴き取ってしまうことがあるかもしれません。

もし、そこで「その痛み、私にも覚えがあります」という言葉が脳裏をよぎったとしても、私たちは峻厳に立ち止まらなければなりません。

どれほど似た景色に見えても、そこにある痛みは、その方だけの、誰とも共有できない唯一無二の痛みであるはずだからです。

安易に「分かる」と口にすることは、その方の人生の重みを、自分の知っている枠組みに矮小化したり、あるいは似て非なるものへとすり替えたりしてしまう危うさを孕んでいます。

似ているようで「違う痛み」と伴にある──境界線が生む調和

自らの傷を通過した私たちは、他私たちの苦痛に対して鋭敏なセンサーを持つかもしれません。

それは臨床における大きな可能性であり、言葉になりにくい苦痛や揺らぎに近づくための重要な資源となります。

しかし、その感受性は扱いを誤れば、臨床の枠組みを揺るがし、クライエントさんに不利益をもたらす危険性も同時に含んでいる諸刃の剣とも言えます。

心理支援において何より重要なのは、痛みとは常に個別的であり、どれほど似ていても安易に「分かる」ことはできないという、絶対的な謙虚さを持ち続けることではないでしょうか。

それは決して、心の「断絶」を意味するのではありません。

むしろ、自分と相手との間にやわらかい境界線(バウンダリー)を引き、課題の分離を大切にするからこそ、相手の固有の痛みを侵食することなく、深いレベルで調和し、伴にあることが可能になるのです。

境界線があるからこそ、私たちは投影して同一視してしまうことなく、響き合うことができます。

自らの傷を、相手を拒絶するための壁にするのでも、安易に同一化するための橋にするのでもない。

ただ、相手の世界をありのままに映し出すための、濁りのない透明な窓として自分自身を研磨し続ける姿勢。

その窓越しに、深い傾聴のあり方をもって、ただ静かに伴に在り続ける。

その誠実な距離感こそが、支援の揺るぎない土台となっていきます。

疼きを抑圧せず、ただ「感じておく」という自己一致

クライエントさんの語りが、自分自身の古傷を疼かせることがあります。

そのとき、多くの人はその疼きに蓋をして隠そうとしたり、あるいは逆に、その疼きに突き動かされて同意や同感の言葉を口にしたくなるかもしれません。

フリードリヒ・ニーチェはかつて、このような言葉を残しました。

語り継がれてきた有名な言葉で、ご存知の方も多いかもしれません。

「深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちらを覗き込んでいるのだ」

クライエントさんの深淵を見つめる関わりは…

同時に、自分自身の内なる深淵を呼び覚ましてしまう行為でもあるのではないでしょうか?

ここには、自分自身の未整理な感情を相手に重ね合わせてしまう「投影」のリスクが常に潜んでいます。

相手の苦しみを見ているようでいて、実は自分自身の過去の亡霊を見ている。

そんな状態に陥っていないか、常に自問する必要があります。

しかし、ここで同意や同感に逃げる姿勢は、セラピスト自身の不安を鎮めるための麻酔に過ぎない場合があります。

また、自分の経験に照らして相手の状況を「一般化」してしまう視点は、クライエントさんの固有の体験を矮小化し、本質を別のものへとすり替えてしまう哀しいケースになってしまいかねません。

真に求められるのは、その疼きを抑え込むのではなく、ただ胸の内で、ああ、自分は今、こう感じているんだなぁ、と透明に感じておく姿勢。

自身の判断やニーズを一時的に脇に置くという姿勢は、決して感情を消し去ろうと思い込もうとする姿勢ではありません。

むしろ、自分の中に湧き上がる疼きに対して、どうこうしようとせず、コントロールもせず、そのまま感じておく姿勢そのものです。

カール・ロジャーズが説いた自己一致とは、セラピストが自らの内側で起きている反応を否定せず、ありのままに意識化し、受容している状態を指します。

蓋をして見ないふりをするのではなく、揺らぎを抱えたまま、その揺らぎと伴にそこに在ること。

その静かな自己受容と深い傾聴の姿勢こそが、クライエントさんが自分自身を受容していくための静かな器となるのです。

非対称性の聖域と、一般化という名の誘惑

専門的な関係において、セラピストとクライエントさんの間には、解消されるべきではない役割の非対称性が存在しています。

これは上下関係ではなく、クライエントさんが百パーセント自分自身の物語に没頭できるように、セラピストが自身のニーズや疼きをただ感じながらも、それを介入の道具にしないという献身的な不均衡です。

その関係性の上で「私もそうでした」という同意や同感めいたセリフを口にすることは、もっての外です。

それは単に仲間関係や友人関係に近づけてしまうだけでなく、相手の体験を自分の経験則で「一般化」し、矮小化してしまったり、似ているが別のものにすり替えたりしてしまうからです。

当事者性は共感の源泉となり得ますが、同時に理解を歪めるフィルターにもなり得るのです。

自身の背景は、セラピストの深層で静かに機能する通奏低音であるべきです。

それを自己正当化や価値づけの材料として、あるいは専門性を主張するための「看板」としてセッションの場でに出した瞬間、それは自己開示のためのリソースというより、相手に配慮を強いる無言の重圧へと転化し、臨床を独善的なものに変えてしまうのです。

境界線を守り、課題を分離して伴にある関わり方から、初めてカウンセリング的な調和が保たれるのではないでしょうか。

メタ認知の盾と、第三の視点という防波堤

傷を通過した伴走者にとっての専門性とは、自身の揺れや脆弱性を完全に消すことではなく、そもそも「完全に消すなど出来るものではない」と踏まえるのが大事だと思います。

むしろ、自身の傷つきに触れる事例に出会ったとき、生じる強い感情的反応(逆転移)をリアルタイムで観察し、保持し続けるメタ認知的視点を研ぎ澄ますことです。

自分が今、なぜ、この瞬間に激しく動揺したのか。

なぜ、一般化して、結論を急ぎたくなったのか。

それはクライエントさんの物語を理解するための感受性として機能しているか、それとも自分自身の投影が暴走しているのか。

この内省を支えるのは、決して個人の意志力だけではありません。

スーパービジョンや教育分析といった、第三者の視点が入る場を持つことは、特に自身の経験を資源とするセラピストにとって死活的と言えるほど重要なものです。

自分を分かっていると過信し、専門性に基づく検討や他者からの批判を遠ざけた瞬間、臨床は容易に独善へと転じ、クライエントさんの安全を損なってしまうことになります。

自身の当事者性を「免罪符」にしないための厳しい自己規律が求められます。

知恵を井戸に沈め、無知の知の座に座り続ける

最終的に私たちが辿り着くべきは、豊かな経験を持ちながらも、それを一度すべて手放して「何も知らない」として聴く、無知の知の境地ではないでしょうか。

専門性とは、単なる知識や技法だけでなく、自身の当事私たち性を適切に扱う力そのものを含んでいるのです。

自らの体験や経験は、相手を理解するための地図ではなく、暗闇の中で相手と一緒に立ち尽くすための、自らの灯火として使う。

自身の痛みを専門性の根拠として誇示するのではなく、臨床を支える背景として慎重に保持し続ける姿勢。

痛みは似ていても、決して同じではない。

分かったつもりにならず、疼きを抑圧せず、ああ、自分はこう感じているんだなぁ、と自身の内側に留まりながら、境界線と課題の分離を大切にして、ただ誠実に伴に留まる。

この緊張関係を引き受け続け、調和を保ち続ける姿勢。

これこそがセラピストとしての専門性の核心であり、最も困難で、同時に最も臨床的な営みである。

そう、私たちは信じています。

経験は、誰かを支配したり、分かった気になるための武器ではありません。

その方の隣で、自分自身の揺らぎと伴に静かに息をするための静寂の一部であってほしい…。

そう願わずにはいられません。

沈黙のなかで響き合う、ある「窓」の物語

ここで、あるセラピストが経験した出来事をお話しします。

長年、連れ添ったパートナーを亡くしたクライエント、Aさんが訪れました。

担当したセラピスト自身も、数年前に同じように大切な人を亡くした経験を持っていました。

セッションの冒頭、Aさんは絞り出すような声で言いました。

「この虚しさは、誰にも分からない。あなたに何が分かるというのですか」

その瞬間、セラピストの胸の奥で、かつての自分の叫びが激しく疼き出しました。

「私にも分かります、私も同じ地獄を通ってきました」という言葉が喉元まで出かかったものの、セラピストはふぅ…と踏みとどまりました 。

もしここで「分かります」などと口走ってしまえば、Aさんの唯一無二の悲しみは、セラピストの「既知の経験」の中に押し込められてしまうかもしれません。

それはAさんの絶望を、誰にでもある「一般的な喪失」にすり替えてしまう、言葉の暴力になってしまうかもしれない危険性があります。

セラピストは、自分の中の疼きを否定せず、ただ「ああ、今、私はあの日と同じ痛みを胸に感じている」と伴にたたずみました 。

そして、数秒の沈黙の後、ただ一言だけ伝えました。

「確かに、私がAさんの痛みをそのまま知ることはできません。

でも、その言葉にならない重さを、ここで伴に感じさせていただけますか」

その言葉は、セラピストの痛み経験という「窓」を通して発せられた、純度の高い内側からの響きを持っていました。

Aさんは驚いたように顔を上げ、初めて深く、静かな溜息をつきました。

セラピストが自分の経験を「看板 」にせず、ただ「伴に在るための静寂 」として保持したからこそ、二人の間には、混ざり合うことのない、しかし確かな「調和 」が生まれたのです。

キーワード

・自己一致(Congruence):

セラピストが自分自身の内側で起きている感情や体験を否定せず、ありのままに意識化し、受容している状態 。

自身の疼きに蓋をすることとは対極にある、誠実な在り方を指します。

・境界線(バウンダリー)と課題の分離:

自分と相手の領域を明確に区別すること 。

これがあることで、相手の感情に飲み込まれることなく、かつ突き放すこともない、適切な「調和」が可能になります 。

・無知の知:

自分は相手の本当の痛みについては何も知らない、という自覚 。

この地点に立つことで初めて、先入観のない真の傾聴が始まります 。