傾聴という名の深い海

傾聴——それは、魂の微かな揺らぎに触れる営み

 

「傾聴」という言葉を聞いて、どんなイメージが浮かびますか?

熱心に相槌を打ったり、うなずいたり、目を見て聴く……そんなふうな姿かもしれません。

正直に言うと、わたしも最初はそう思っていました。

 

けれど、ほんとうの傾聴というのは、もっと不器用で、どこか怖くて、でもとても美しい営みなのだと思います。

相手の話を、ただ聴くだけではありません。

その言葉の奥にある、まだ言葉になっていない「何か」……微かな沈黙とか、戸惑いとか、ため息の気配。

そういったものに、自分の心がふるえてしまう。

いえ、触れてしまうのです。

 

まるで、静かな森の奥に響く小さな水音に、じっと耳を澄ますような感覚です。

あるような、ないような……確かめきれないまま、それでも「たしかに、そこにある」と感じる。

そんなふうなものです。

 

傾聴がうまくできない……その原因は、何でしょうか

 

傾聴がうまくいかない、と感じるとき、私たちは「聴き方が足りないのではないか」と考えがちです。

理論を学び直し、技術を磨こうとします。わたしも何度も、そうしてきました。

 

けれど、それでもしっくりこない感覚が残ることがあります。

相手の話を聴いているはずなのに、なぜか落ち着かない。

つい口を挟みたくなったり、自分の経験を話したくなったり……。

 

その理由は、「感情が反応しているから」かもしれません。

つまり、知識やスキルではなく、心の動きそのものが、聴く姿勢を難しくしているのです。

 

実際、傾聴学習者の8割は、「感情の問題」でつまずくといわれています。

つまり、傾聴がうまくできないという悩みの本質は、「相手の話をどう聴くか」ではなく、「自分の感情と、どう向き合うか」にあるのです。

 

自分の感情に耳を澄ませる姿勢が、傾聴の入口

 

感情は、どうしても厄介なものです。

「こんなふうに感じちゃいけない」「抑えなきゃ」と思うときもあるでしょう。

聴き手なのに、イライラしたり、不安になったりするなんて――そんな自分を責めてしまう場面もあります。

 

けれど、そうやって感情を押し込めてしまうと、聴こえなくなってしまいます。

相手の声も、自分の声も、どちらも。

 

「今、自分はこんなふうに感じているんだな」

そうやって、ただ気づいて、受け止めてあげる。

それが、自己理解であり、傾聴の土台になります。

 

カール・ロジャーズが「自己一致」と呼んだ状態は、自分の感情に嘘をつかず、ただそこに居続ける在り方なのだと思います。

 

身体の声が、心の声を先に知っている場面があります

 

ユージン・ジェンドリンのフォーカシングは、まさにこの感覚を大切にしています。

「なんか引っかかる」「まだ言葉にはならないけど、何かある」

そんな曖昧な“感じ”を、無視しない姿勢です。

 

胸がモヤモヤする、喉の奥がつまる……そういった身体のサインは、まだ形になっていない心の声かもしれません。

傾聴の最中にも、身体が反応するときがあります。

 

言葉では説明できないけれど、手のひらが冷たくなったり、背中がぞわっとしたりする。

それは、心が「ちょっと待って」と伝えてきている合図かもしれません。

 

そうした微細な反応に耳を澄ませる関わり。

それが、自分を大切にしながら、相手の深い部分にも触れていくための鍵になると感じています。

 

傾聴とは、「うまく聴く」スキルではなく「揺れたまま、そこに居続ける」姿勢

 

人間性心理学は、人間には、もともと成長していく力があると教えてくれました。

どんなに閉じた心にも、ほんの少しだけ「変わりたい」「わかってほしい」という気持ちが眠っている――わたしは、そう信じたいです。

 

これは、音楽や文学、神話の世界とも通じる感覚かもしれません。

ある詩の一節に、あるメロディに、心がふと反応するときがあります。

自分でも理由はわからないけれど、なぜか、涙がこぼれる。

そういうとき、私たちは“深いところ”で誰かと響き合っているのだと思います。

 

傾聴もまた、そういう音楽のような営みではないでしょうか。

完璧な返答をすることでも、流れるような質問をする接し方などでもなくて、ただ、「揺れたまま、そこにいる」あり方。

 

不安や迷いを抱えながら、それでも離れずにそこに居る在り方。

その姿勢こそが、相手に伝わっていくと感じています。

 

間違った釣り堀では、何も釣れない

 

わたしたちは、よく「答えのない場所」で悩んでしまいます。

もっと知識を増やせば、もっとテクニックを磨けば、傾聴がうまくなる――そう思い込んでしまうのです。

 

でも、本当に必要なのは、「自分の心が、なぜ今、こんなふうに動いたのか?」という問いかけです。

魚がいない池に、どれだけ釣り糸を垂らしても、釣れません。

それと同じように、「感情」という池を避けて、知識だけで傾聴を完成させようとしても、そこに答えはないのです。

 

だからこそ、傾聴者としては「正しく悩む」姿勢が大切になります。

聴き方を悩むのではなく、自分の心との付き合い方を問い直す。

それこそが、傾聴を深める最短の道かもしれません。

 

傾聴とは、自分自身との関係の写し鏡

 

最終的に、傾聴とは「人の話を聴く技術」ではなく、「自分とどう向き合っているか」が、そのまま映し出される在り方だと感じています。

自分の不安をどう扱っているか。

怒りや迷いをどう受け止めているか。

それらの態度が、そのまま、相手に対する態度として現れてしまいます。

 

自分の“やっかいな部分”を認められるようになっていくほどに、相手のやっかいさにも、自然と寄り添えるようになっていきます。

傾聴とは、結局のところ「自分といる練習」なのかもしれません。

上手くやろうとせず、ただ、そこにいる存在。

きっと、それだけで、充分なのかもしれないですね。